05/04のツイートまとめ

bijutu321

徳化窯  明・清時代を通じて良質の白磁を生産した福建省徳化県の窯。碗、皿、杯、盞のほか、動物、人物などの彫塑を生産していた。特に観音像や羅漢像などの彫塑が海外に輸出され、(中国の白磁)と呼ばれてヨーロッパで好まれた
05-04 02:08

瀬戸焼 馬の目の模様 
05-04 02:07

05/03のツイートまとめ

bijutu321

骨董品マニア 目からウロコの骨董塾  塾長は中島誠之助
05-03 16:33

志賀直哉

志賀直哉。宮城生まれ。小説家。東京の祖父母のもとで育ち、学習院高等科卒、東京帝国大学中退。明治43年(1910)、武者小路実篤、有島武郎らと『白樺』を創刊し、「網走まで」を発表。その後尾道、松江、京都などに居を移し、執筆を中断した時期を経て、『城の崎にて』(1917)、『和解』(1917)、『暗夜行路』(1921~1937)などを著す。「小説の神様」とよばれ、多くの作家に影響を与えた。 昭和24年(1949)文化勲章受章。

日本画 富岡鉄斎

富岡鉄斎 京都生まれ。画家。父は法衣商。国学・儒学・仏典を修め、歌人太田垣蓮月に学ぶ。明治元年(1868)から各所の神社の宮司を務め、神社復興に尽力。明治14年(1881)以降は京都に戻り、学問と画業に専念し、南画壇の重鎮となった。大正6年(1917)に帝室技芸員、8年(1919)に帝国美術院会員。最晩年まで盛んな制作活動を行い、独自の画境を築きあげた。

日本画家 速水御舟

蒔田良三郎の次男として東京市浅草区に生まれる。

1905年(明治35年)、市立育英小学校高等科へ入学。若い頃から画に興味を持ち、1908年(明治41年)に卒業すると、松本楓湖の安雅堂画塾に入門。宋元古画、大和絵、俵屋宗達、尾形光琳などの粉本を模写する一方、同門の仲間で団栗会を結成。近郊を写生散歩して回った。

1909年(明治42年)、師である楓湖から禾湖(かこ)の号を頂く。同年、母方の祖母である速水キクの養子となる。1910年(明治43年)、巽画会展に「小春」、烏合会展に「楽人」を蒔田禾湖の名で出品。これが初めての展覧会出品となる。

1911年(明治44年)、巽画会展に「室寿の讌」(むろほぎのうたげ)を出品。一等褒状となり宮内省買い上げの栄誉を受ける。同年、同門の今村紫紅に従い紅児会に入会。その後、御舟は今村から多大な影響を受けた。

1912年(明治45年)、号を自ら浩然(こうねん)と改める。

1913年(大正2年)、紅児会が解散する。その後、再興日本美術院展(院展)に活躍の場を移す。

1914年(大正3年)、号を御舟と改め、この頃から姓を速水とする。同年、今村を中心とした美術団体・赤曜会を結成。その後、1916年(大正5年)に今村が死去するまで活動を続ける。1917年(大正6年)第4回院展に「洛外六題」を出品。横山大観、下村観山らに激賞され、川端龍子と共に日本美術院の同人に推挙された。

1919年(大正8年)、浅草駒形で市電に轢かれ左足切断の災禍に見舞われる。しかし御舟の画に対する熱意には全く影響せず、その後も精力的に活動を続けた。

1921年(大正10年)、結婚。

1925年(大正14年)、軽井沢に滞在中、代表作の1つである「炎舞」を完成させる。

1929年(昭和4年)、第16回院展に「名樹散椿」を出品。翌年にはイタリア政府主催・大倉男爵後援ローマ日本美術展覧会の美術使節として横山大観夫妻、大智勝観らと共に渡欧。ヨーロッパ各地及びエジプトを巡る。渡欧中、ジョットやエル・グレコに魅せられた。

日本に帰国後も日本画の新しい表現方法を模索し続け、数々の名作を発表する。そのため多くの美術家から日本画の将来の担い手として嘱望されたが1935年(昭和10年)3月20日、腸チフスで急逝。
検索フォーム
フリーエリア
blogram投票ボタン
リンク